海に思いを馳せて

自分のテーマ/モットーを模索中 from Southampton

私がプライド/特別さを感じるもの

今日は日曜日。そして7月最後の日。

1日フリーだったので、朝はゆっくり過ごし、お昼には余り物でピザをちゃちゃっと作って、晩御飯用にずっと食べたかったカレーを作って。

そして、ぼぼ2週間ぶりにジムのプールへ。とにかく自分のペースで泳げるだけ泳ぐ。

泳いでるとき、走ってるときもそうなんだけど、私は考え事をしていることが多い。

今日のブログは、泳いでるときにふと考えたこと。

 

自分は、自分自身に関するどんなことにプライドを持ったり、特別さを感じているのだろう。

 

いちばんに浮かんだのは、海外で学位留学生をやってること。

正直に言うと、わざわざ日本の大学に行って交換留学制度などを利用せず、学位留学に来てる自分は交換留学生とは違うんだって勝手な思い込みとプライドがあるように思う。何が違うのって言われたら滞在年数ぐらいなんだけど、一部の人と比べたら「やる気」「英語力」「言葉では表せない何か」など言えなくもない、そんな自分がいる。

そして、誰かは私に言うー「海外で学位をとるんだから、就職で有利だ」とか、「それだけの英語力と海外経験があれば、就職に困らない」とか、「交換留学生が1年なのに対して、4年は大きい」とか。お世辞だとわかっていても、どこかでそれを鵜呑みにしていて、ますますプライドを強める。

私はそんなプライドを持てるほどの何かを得ているわけでもなく、就職でほかの学生(バックグラウンドに関係なく)に何か差異をつけられるようなものがあるわけでもない。

こんなプライド捨ててしまいたい、と思う。

だって、こうして学位留学できているのはすべて親の経済力のおかげにすぎないから。

私は恵まれていて、小学校の頃から教育にはたくさん投資してもらってきた。だから、高校も進学高に行くことができたし、英語学習にも力をいれることができた。大学進学も保証された。そして、今は高い学費と生活費を払ってもらっている。今思えば、お金さえあれば、英国のどこかの大学のファウンデーションコースには入れたと思う。

もちろん大学に入った後は自分の努力も必要だけど、その努力が報われるぐらいのレベルの学力をつけられたのもやはり今までの投資の積み重ねが大きいと思う。

また、お金だけじゃなくて、親が私のことを見捨てずにいてくれたこと。単にお金だけ与えるのではなく、適度に私の人生に介入して教育してくれたこと。

だから、私は「学位留学生」の肩書きに甘んじたり、プライドを持ったりしていいような人間ではないのだ。そうするようなことがあるとしたら、それはただの「親の七光り」にすぎない。

と思うと、文科省奨学金くれって叫べない。私は日本の大学に行くこともできたのに、わざわざお金のかかる道を選んで、十分な経済的支援があって、別に特に優れた能力や技術、業績もない。

実は、トビタテ奨学金(日本の大学生向け)に加えて正規留学生にも奨学金を、という提言をしようという企画が正規留学生の友達との間であった。しかし、私はその企画にそこまで熱意がなくてやめることにした。

それにもかかわらず、その後に幾度か何も考えずにトビタテ奨学金の話が出てくるたびに「正規留学生にも奨学金を」という意見をどこかで発信していた。

ついこないだもトビタテが定員割れで、ある正規留学生たちが「それなら自分たちにも奨学金をくれ」と発信していた。

泳ぎながら「学位留学生」のプライドのことを考えている時、その叫びと、企画から去ったことを思い出し、なんでその当時熱意が持てなかったのかわかった。

ー私はそんなことが言える立場ではないから。

また、9月に参加予定の日英学生会議のテーマが「先進国の貧困」で日本の貧困の現状について調べる機会があり、貧困層に必要な予算が全然当てられていないことを知り、ますます私のような裕福な家庭の出でなおかつ何も称えるべき業績や才能のない者に奨学金なんて給付してはいけないと思った。

 

一つ付け足しておくと、これはあくまで私自身のことであって、ほかの正規留学生が政府から奨学金を受け取るべきではない、という意味ではない。私にほかの人のことをあれこれ言う資格はない。

 

さて、ほかに思いついたプライド、特別さと言えば、CVやlinkedinに載せているいわゆる「今までの経験(課外活動)」。ソサエティの役員、バイト(日英)、ボランティア(日英)。また、その場所や役職でもその度合いは違う。特にイギリスでの経験に対する特別さは、日本での経験に勝ると感じる。たんに言語が違うだけなのに。私は「"海外でバイト/ボランティアをする私"はかっこいい」という意識高い系(笑)だ。バイトやボランティアのことを「仕事」と言ってみたり、所属団体の知名度に甘んじたり。

それより、その経験を通してどんなことをできるようになったか、数字の物差しで測れるものがあるなら(たとえば収益など)それをもっと誇りに思うべきじゃないか。

海外/日本、知名度に関係なく、自分が心から好きだと思えること、頑張れること、得意なことでプライドを持ちたい。

 

そして、素晴らしい業績やバックグラウンドを持っている方とつながっていることに勝手に特別さを感じて酔いしれていることもある。すごいのは彼らであって、私ではない。つながったことは、たんに運が良かっただけであり、私に同等の価値があることは保証されていない。

 

あとは、「こうやってプールで泳いで運動してる自分」、つまり「健康に気を使っている自分」になんとなく酔いしれてないかな、という気もしてくる。まぁ、泳ぐスピードは亀レベルなんだけれど、「プール(ジム)に通ってる自分」はかっこいいって心の奥底で考えていないだろうかと思った。そんなこと言い出したら、「毎日読書している自分」はかっこいい、とかキリがなくなる。

でも、これが今の私なのだ。その自分を知って受け止めたい。こんな自分に対する批判だってなんだって受け止めてやる、というのが今の心情。

 

自分を否定し続けてプライドも特別さも感じられない人間になるのがいいことなのか、むしろ悪いことなのかわからない。

でも、私が一つだけわかっているのは「私にしかできないことっていうのはほとんど存在しない」から、自分が自分を特別化できる要素はほぼないのであり、少々のことでプライドを持ったり、特別感に浸るのは当然のこと。そのちょっとした要素を共有している人の数が少なければ少なくなるほど、プライドを持ったり特別視したりする。

 

結論として、

 

どこに境目を引けばいいのかわからない。

 

でも、明らかに自分が作り上げていないもので、プライドや特別感を持ちたくない。